別荘地の歴史

45余年の自然共生史

明野高原別荘地

明野高原別荘地の足跡は、昭和42年まで遡ることができる。歴史の舞台となった明野高原は、面積にして約25万坪の広さを持つ、標高1,671mの鷲ヶ岳の山麓にある高原だ。海抜は約900メートルで、真夏でも冷涼な気候、そして日本三霊山(富士山、白山、立山)白山の言語に絶する美観を堪能できるという好立地。

ある登山家の言葉だが、「本当の高原は、その地方の名山が目の高さの稜線で一望できること」ほんものの高原など、そんなに簡単に見当たるものではない、と言っている。慌てず、急がず、森と高原の速度に合わせて。古い写真からは、かつての日本人の想いだけでなく、これからの日本の進路まで視えるような感覚に包まれた。

開発当初の現地道路 準備中

左は昭和45年(1970)、右は平成25年(2013)に撮影された現地写真。ともに明野高原の同じ場所を写したものだ。比較してみると、およそ半世紀近くを隔ててもほとんど変化がないどころか、むしろ森は育っているように見える。明野高原別荘地の開発方針を象徴する事例と言えよう。

下の3つの写真は、開発前の明野高原。昭和50年に竣工した個人別荘。昭和60年(1985)に開通したやまびこロード工事風景。原野を開拓するという大プロジェクトにしては、のどかな雰囲気が面白い。

開発前の明野高原(昭和41年頃)
建築中のすずらん
やまびこロード工事中

明野高原のリゾート開発は、昭和40年(1965)の開拓農家解散が発端だった。昭和21年(1946)から満州開拓団353人が引揚げ、ひるがの、上野(牧歌の里周辺)、切立(現在の明野)の大規模開拓入植事業が始まり、切立(明野)には24世帯が生活を始めた。その開拓民たちの希望も、三八豪雪が打ち砕く結果となった。連日のように大雪に見舞われ、高鷲町内大鷲地区で265cm、ひるがので360cmを記録した。開拓民の家はこの大雪で軒並み壊れた。二代目の子供たちは生活の困難から村から離れ、親たちも次第に老齢化していく。開拓村の存続は非常に難しい状況となった。そしてとうとう開拓農家解散。開拓民は各地に出て行った。

そこで、明野高原の未来に夢を見た有志が集まり、昭和42年(1967)年から土地の購入をスタートさせた。開発側と所有側も一体となって続けてきた、静かな開発。これこそ、明野高原別荘地の最大の特色かも知れない。現在の明野高原別荘地は、全9エリアで約2000区画を販売400棟以上の別荘が建ち並び、約50区画を分譲している。その広大な敷地を考えればむしろ少ない印象だが、ステイタスとしての別荘所有ではなく、自分が没頭できる時間を過ごす実用のための別荘というスタイルは今も貫かれている。同別荘地のこうした姿勢は、5年後、つまり開発着手から50年を経ても変わらないと確信させるレベルのものだ。そして、この姿勢があるからこそ、明野高原のリゾートはかつての地位を今も維持している。急がば回れ…、ビジネスパーソンの視点から見ても、格好の教科書のような存在と言えるだろう。

明野高原にまつわる主な出来事

昭和42年 明野高原の土地購入開始
川本不動産設立
昭和45年 「切立上野」から「明野高原」に地名変更
分譲開始。30区画販売
昭和51年 R社に販売委託
1年で最高120区画販売
昭和52年 S社に販売委託
5年で約20万坪販売
昭和58年 「ログの里」モデル地区造成
10棟の建売ログハウス販売
平成元年 川本不動産から、現在の山明不動産株式会社へ移行
管理会社明野開発株式会社設立
平成7年 管理会社有限会社明野管理組合設立
平成10年 東海北陸道高鷲インター開通
平成12年 カナダから直輸入のログハウス建築開始
平成17年 フィンランドから直輸入のログハウス建築開始
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